手術不要で脳の深部を刺激する時代へ
脳の深い部分にある神経細胞の活動を正確にコントロールできたら、どうなるでしょうか。
パーキンソン病やうつ病など、これまで治療が難しかった脳の病気に対して、新しい治療法が生まれるかもしれません。
このたび、イギリスのユニバーシティ・カレッジ・ロンドンとオックスフォード大学の研究チームが、超音波を使って脳の深部を非侵襲的に刺激する画期的なシステムを開発しました。
この技術は、手術をすることなく、脳の奥深くにある特定の神経核を正確に刺激できるという、これまでにない特徴を持っています。
今回の研究成果は、2025年に国際的な科学雑誌『Nature Communications』に掲載され、世界中の研究者から注目を集めています。
【脳の深部を狙い撃ち】
人間の脳の奥深くには、大脳基底核や視床といった重要な構造があります。
これらは運動や感情、意識など、人間のあらゆる行動に関わっています。しかし、従来の脳刺激技術には限界がありました。
脳深部刺激療法(DBS)は効果的ですが、脳に電極を埋め込む手術が必要で、感染症や出血などのリスクがあります。
一方、経頭蓋磁気刺激(TMS)や経頭蓋直流電気刺激(tDCS)は非侵襲的ですが、脳の表面にしか届かず、深部の刺激には不向きです。
今回開発されたシステムは、ヘルメット型の装置に256個の超音波トランスデューサーを配置した構造になっています。
555キロヘルツという周波数の超音波を使い、頭蓋骨を通過させて脳の深部に焦点を合わせます。
この装置の驚くべき点は、その精密さです。
刺激できる範囲は横幅1.3ミリメートル、縦幅3.4ミリメートルと極めて小さく、体積にしてわずか3立方ミリメートルです。
これは従来の小型超音波装置の約1000分の1、深部脳刺激専用装置の約30分の1という驚異的な精度です。
さらに、このシステムはMRI装置と同時に使用できるため、刺激している最中の脳の活動をリアルタイムで観察できます。
これにより、刺激が実際に効果を発揮しているかを確認しながら治療や研究を進めることができます。
【視床外側膝状体への刺激で視覚野の活動が変化―人間での実証実験】
研究チームは、このシステムの効果を確かめるため、健康な成人7名を対象に実験を行いました。
刺激のターゲットとして選ばれたのは、視床の中にある「外側膝状体(LGN)」という小さな神経核です。
外側膝状体は、目から入ってきた視覚情報を大脳の視覚野に伝える中継地点のような役割を果たしています。
その大きさは約80立方ミリメートルと非常に小さく、正確に刺激するには高い精度が求められます。
実験では、参加者にチェッカーボード模様の視覚刺激を見せながら、外側膝状体に超音波刺激を与えました。
すると、刺激を受けた側の視覚野で、明確な活動の増加が観察されました。一方、反対側の視覚野では変化が見られませんでした。
この結果は、超音波刺激が狙った場所だけに正確に届き、周辺の組織には影響を与えていないことを示しています。
さらに、対照実験として外側膝状体の近くにある別の神経核を刺激したところ、視覚野の活動に変化は起きませんでした。
研究チームはまた、シータバースト刺激という特殊なパターンで超音波を送る実験も行いました。
この方法では、刺激後40分以上にわたって視覚野の活動が低下し、持続的な効果が確認されました。ただし、2時間後には効果が消失していました。
これらの結果は、超音波による脳深部刺激が、一時的な効果だけでなく、神経回路に持続的な変化をもたらす可能性を示唆しています。
【個別最適化された治療計画と高精度な位置決めシステム】
この超音波システムのもう一つの重要な特徴は、患者一人ひとりに合わせた治療計画が可能な点です。
頭蓋骨の形や厚さは人によって異なり、超音波の伝わり方に影響します。
研究チームは、各参加者のCT画像とMRI画像をもとに、コンピューターシミュレーションを行いました。
これにより、256個の超音波素子それぞれの出力と位相を最適化し、狙った場所に正確に超音波を集束させることができます。
また、頭部を正確な位置に固定するため、3Dプリンターで作製した個別対応のマスクを使用しました。
このマスクは、鼻の骨や頬骨、後頭部などの骨の形に合わせて設計されており、セッション間での位置のずれは平均1.5ミリメートル以内に抑えられました。
実験中の頭の動きも極めて少なく、平均0.25ミリメートル程度でした。
この高い安定性により、ミリメートル単位の精密な刺激が実現できたのです。
さらに、セッション間で多少の位置ずれがあった場合でも、リアルタイムで刺激位置を補正する仕組みも開発されました。
これにより、毎回新たなシミュレーションを行わなくても、正確な刺激を維持できます。
安全性の面でも、脳組織の温度上昇は0.2度未満に抑えられており、組織への悪影響はないと考えられます。
参加者からも視覚の変化などの副作用は報告されませんでした。
【今後の展望と課題】
この技術が実用化されれば、脳神経疾患の治療に大きな変革をもたらす可能性があります。
パーキンソン病や本態性振戦など、これまで脳深部刺激療法の対象となっていた疾患に対して、手術なしで治療できるようになるかもしれません。
また、うつ病や強迫性障害など、精神疾患の新しい治療法としても期待されています。
さらに、健康な人の脳機能研究にも応用でき、意識や記憶といった高次脳機能の解明につながる可能性もあります。
ただし、実用化にはまだ課題もあります。超音波刺激が脳神経細胞に作用する詳しいメカニズムは完全には解明されていません。
また、どのような刺激パターンが最も効果的なのか、長期的な安全性はどうなのかなど、さらなる研究が必要です。
今回の研究は7名という少人数での実験でしたが、一人ひとりのデータを詳細に分析することで、技術の有効性を示すことができました。
今後はより多くの参加者での研究や、実際の患者さんでの臨床試験が期待されます。
脳の深部を手術なしで正確に刺激できる時代が、すぐそこまで来ているのかもしれません。
この革新的な技術が、多くの患者さんに新しい希望をもたらす日を、私たち医療従事者も心待ちにしています。
出典
Ultrasound system for precise neuromodulation of human deep brain circuits

